生還した人たち

       
 
 生還できた「朝鮮報国隊」の人びとの名簿から
(「京城刑務所假出獄関係書類」韓国政府記録保存所蔵)
高解像度写真685K
(1725*1262px)
後ろ手に縛られた状態を示す
高福男さん(1917年生)
高福男さんが描いたつるはし

Aさん
 「あそこに行って帰ってきたひとは何人もいない。 一緒に行った150人のほとんどが死んだ。 揮発油のドラムカンを山の中のあちこちにものすごくたくさん積み上げた。 見えないように、たくさん貯蔵してあった。(その仕事をしたのは)ぜんぶ朝鮮人だ」、
  「朝鮮人を殺すのをわたしたちは見たが、わたしたちに見せるんだ。  地面を大きく掘った穴のまわりに殺す人間を座らせて、頭を下げさせる。  日本人が日本刀で頚をきると、喉の所が切られないでつながっていて、  頚が落ちるその衝動で身体ごと、穴に落ちていった。犬死によりもひどかった。  遺体は、木と木の間に積み上げて揮発油をかけて燃やした」      (韓国KBS『해남도에 묻힌 조선혼』より)
表台cさん(1922年生) 1943年4月に海南島に送られ、1944年9月に朝鮮にもどることができた。 2005年12月に亡くなる。
 表台cさん
 「三亜に着くと、そこは荒れ地だったが、飛行場をつくるという。最初は建物も何もなくて、自分たちで仮小屋をつくった。 看守は5人。ひとりが朝鮮人で4人は日本人。
  逃げた人は多かった。山に、蒋介石の‘匪賊’がいて、襲撃がしょっちゅうあった。そこに合流しようとして逃げた。  3人がいっしょに逃げたことがあったが、2人は1か月以内につかまり、1人は3か月以内につかまった。  縛られたまま、宿所のなかでくくりつけられていた。
  看守が、そばを通るたびに殴った。最後に、殴り殺された」。
Aさん(1917年生)
1943年春に、「第1次南方派遣報国隊」で海南島に。 1944年8月に生還。1998年10月亡くなる。
柳濟敬さん(1917年生)
柳濟敬さんは、1941年に「治安維持法違反」で3年の実刑判決を受け、 1943年3月「第一次南方派遣報国隊」で海南島に送られた。
柳濟敬さん
  「何回か逃亡してつかまった人だった。その人をみなが見る前で、   看守が縛って、逆さに天井に引っ張り上げてぶらさげた。
  ほんの何分かで死んだ 。みなが見ましたよ。ひっぱりあげた人間は、看守部長だった。   名前は貴島。性質が荒くてね。恐怖感を与える。殺された人の名は、金老麻」。

高福男さんの証言

1943年3月
ピョンヤン ソウル インチョン
大田 釜山 大邸
あちこちの刑務所から
800人が ソウルに集まった
青い服を着て
「南方派遣報国隊」の腕章をつけた
ソウル駅から 出発して
夕方 釜関連絡線に乗った
海口に着いて
夜遅く 感恩に到着した
飛行機の掩体壕を作ったんだ
土を運んで
飯は少ないし しごとはきつい
早くできなかったら
腕立て伏せの姿勢をさせて
つるはしの柄で殴る
こうしても死ぬ 
ああしても死ぬ
8人で 逃げた
捕まった
逃げた8人が みな捕まっていた
つるはしの柄で殴られて
気を失い
気が付くとまた殴られ
また殴られ……
足首に 木を二本をはめて
釘を打つ
後ろ手に縛られて
ぶら下げられていた
大便もそのまま、 小便もそのまま
縛られたまま 
みんな 死んでしまった
宿舎の 廊下につながれていた
みんな しごとから戻ってくると
 “なぜ 逃げたんだ
  生きるのも一緒
  死ぬのも一緒ではないか”
また逃げて 台湾人の家にいたら
1か月くらいで解放だった
逃げていた「コバヤシ」が
遊撃軍隊長になっていた
800名はほとんど死んで
何人も残っていなかった
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